昭和43年8月22日     夜の御理解



 信心にお参りは付き物ですけれどね、ここに一つ分からなければならない事は、お参りが、内容に一つも生き生きしたものもなからなければ、いわば有り難いものもなからなければ、相済まないというものもない。えー、勿体無いというものもさらにない。
 というて、とりわけ願わなければならん事もない。といったような場合の信心ですね、そういう信心が、私はあの、信心の危機だとね。信心にお参りは付き物ですけれども、そのお参りにはもうどこまでも生き生きとしたお礼、またはお詫び、またはその願いといったようなものが内容にあっての信心でないと、信心の値打ちというか、信心を頂いていく値打ちがないわけです。
 ところがその、やはり毎日こうお参りさせて頂いておると、お参りをしなければ気持ちが悪い。やっぱ、何とはなしにもう習慣になっておる。これではですね、あの折角の信心が値打ちのないものになってきますから、お互いの信心を何時もその、反省をしていかなきゃいけない。
 ですから願われるものは、内容に何時もその有り難いというものがなからなきゃ(なければ?)とりわけこうして、夜の御祈念なんかは一日の働きの中に思うてみると、はー今日も本当に忙しゅうて働かせて頂いた。あれもこれも神様の万事お引き回せの中に、まぁ素晴らしいタイミングの中にお繰り合わせ頂いて有り難いというものが、あんなら、御祈念にお参りをさせて頂くという事になって来たら、生き生きとしてくるのである。
 はー思うてみると本当に、今日はあそこんところを失敗した、本当に相済まん一日であったというような生き生きとした心からのお詫びが、謙虚な姿になってお参りさせてもらう時にそれがお参りの意地というものが、そこに出て来る。
 だから結局は日々の信心生活の中に有り難いもの、相済まないもの。同時にまた、自分が立てておるところの一つの神願、願い。願いというものが、ね、ご成就になって行く、願いが段々おかげ頂いていきよる。神様の働き願うた限り、神様の働きがあっておるのであるから、そのお働きに対して、感謝の心をお参りにささげるというように、なからなければならん。
 これは(やむすると?)その、そこんところが段々薄く、気迫ね、薄くなってくる。そしてお参りが、いわゆる習慣。そこでその、やはり信心は唖然だといわれるようなにまで、やはりなりかねない。
 ね、信心がいうなら(慢性?)になってしまう。お参りしなければ気持ちが悪いといったような信心ではですね、相済まんことです。ですから日々の中に本当に生き生きとして、そこに一つの動きというものとね、そう動かなければおられない。ね、さぁもう7時ぞと。
 と例えばどんなに忙しい仕事をしておっても、さぁもう7時ぞと。さぁ帰らせてもらう。それから、さぁもう8時ぞと。という時には夕食も終わり、いうならお風呂も終わり。さぁ9時の御祈念に間に合うように、さぁというようなこの、さぁといったようなものがなからなければ神様へは届かないです。
 ね、だらーとしたお参り。ね、テレビの面白いことがありよりゃ、もうそれを立ち上がりきらん。ね、時計ばっかりみてから、さぁ8時になった、もう9時なったからちょいと参ってくる。そういうお参りでは本当に、私は切ない信心だと言わなきゃならん。だらしない信心だといわなきゃならん。それじゃ駄目。
 やはりそこ辺がですね、仕事の中でもさぁ何時になったぞ、さぁもう何時になったぞというようにですね、時計を見ながら夜の御祈念が近づいて来る中に一日の御用が、おいたたまれて行くようにです、ね、お参りの時間というものが、そこに(めいしゅう?)されて来る。
 心がけさせて頂いておる中に、きちっとしたお参りが出来るようになってくる。そういう信心を頂きたい、ためにはどうしても、その信心生活ね。本当に有り難い、勿体ないという。相済まんことであったといったような、私はものが生き生きとして、そのお参りの原動力になっておらないと、やはり信心がくせになる。お参りがくせになる。
 お参りがくせになるようなお参りでは、いよいよつまらん事ですからね、どうぞ。

梶原 佳行